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数学が苦手です。厳密には「数で行為すること」に抵抗がある。出会いが悪かったのかもしれません。時速⚪︎キロで歩く挙動不審なたかし君には毎度イラついたし、馴染みのない言語を使って証明を強いられる義理も僕には無かったといえる。
思えばもっと早くカワシマ少年のけがれなきロマンにこの物語を届けたかった。それは「数」という言語が見せてくれる「情緒」というものについて。森田真生さんによる著書「数学する身体」(新潮社)を読んだのが数年前。まだ見ぬ風景を求め「数」をポッケに旅をする人々のことを知りました。数学という世界がなぜこんなにも人間味に溢れてるのだろう。少し寂しいのだろう。そして孤独なのだろう。僕のハートに直撃したのはまだ記憶に新しい。
生きとし生ける僕らはいま生い立つことができるフィールドへの恩恵を最高潮に感じる権利があります。そして各々の言語でこれを記号にあらわし直す使命があるとも思う。僕の言語はそれが写真だと信じていますが、数学という言語で見つめる眼差しもあるんだという発見は代え難いものでした。それも生粋に、数になってフィールドを泳いでいる。いずれも正しく等しいモノサシですが、現実に横たわる環境は異なります。写真というものが、数学が見つめている世界と同じように豊かで、まっすぐで、少し寂しいものであるという自信はありません。イメージ(写真)をもって僕の生い立つフィールドを、数学のように生粋に、表現できるのには足りない何かがあります。僕の写真はいつか数学のようになりたい。その答えがやはり撮りながらじゃないと辿り着けない、ひとつの「まだ見ぬ風景」ってやつなのかもしれませんね。
写真の質は言わずもがな、どう使いこなしていくべきかの品位についても一層耕すべきだと考えます。いかほどの肉体美も衣服の工夫で見え方が変わるものです。カラダづくりにおける美学も健気さも、ピッチピチのTシャツから下心丸出しで垣間見えようものなら話は別です。
言うだけだと簡単。自身を棚に上げるにはどうしてもWEBの体裁のことがひっかかり、写真の最低限の面倒は自分でできねばと、自分の首を締め上げる年末年始を過ごしたのでした。WEBはオンライン上の一軒家です。決して高級じゃないけれど客人にはお茶の一杯や二杯はお出しできないとなあなんて思ってたのだけれど、区画整理もされていない街中、地図なしには辿り着けないような我が家に果たして客人が来てくれるかも疑わしい。そう言えばSNSは広場に人が毎日集まってくる団地のようなところでした。
頼れる人も、お金もない中始まった突貫工事は着工から約一ヶ月。本日、叩き台となる新ウェブサイトのお披露目とさせていただきます。写真がどう使いこなされていくべきかの実験の場として、そしてSNSに変わる思考の落書き帳として、ぜひこれからもお付き合いのほどよろしくお願いします。
(ブログサービスに困っていたのだけれど、考え方を変えてみた。この日記もただの自由帳みたくて良い)
令和6年1月末、フェイスブックおよびインスタグラムを退会します。情報ネットワークや社会関係における自身の在り方そして写真表現の独自性を現実に即して探究してみたいと思い至りました。
上記においてメッセージでやり取りをさせてさせていただいていた方にとってはご面倒ですが、正式なご連絡先を交換したく、こちらからご連絡申し上げます。またフォロー下さっている皆さん、お友達の皆さんとは、ソーシャルネットワークの外でもご縁のある方ばかりです。改める必要はないとも思いますが、時間の許す限りご挨拶回りができればと考えています。なお今後日々のことは自身のウェブページに綴ろうと思っています。ありがとうございました。
ちなみに昨日、年末に現像に出していたブローニーが帰ってきたので一枚載せます。デジタルデュープで今回も色現像。実直な色で完成しました!
2024年1月2日
二〇二四年を迎え、テレビドラマ踊る大捜査線をひと通り鑑賞したあとに書き初めを行いました。眼と手足。野暮ったい語呂のようにも感じて悩みましたが、本年の抱負を象徴する言葉とします。
まず思い浮かべることはオンラインとオフラインです。このバランスについて悩み続けていることを打ち明けます。普段われわれが日常としているそれを、どうも自分の暮らしに重ねると正常に思えなくなってきた。オフライン、つまりは《現実》に自我や意思が在るように思えて、時間の端々に染み込んでくるオンライン、つまりはインターネットから受ける感情の凹凸のうえに居させて貰っているような心地にさいなまれ、けつまずくことが多々あります。オンラインはこの世に存在しているものを確かに照らしていて、みんなの心とゆるやかに繋がっている。だからこそ、心が、さみしさが、オンとオフの区別を嫌がる。だからといって境界がないのも儚い。
森羅万象の大半はインターネットので起こっているんじゃないだろうか。赤ん坊はコウノトリが運んでくるのではなく、インターネットからEnterボタンで産み落とされているんじゃないだろうか。そんな人間関係や社会生活にクエスチョンを浮かんできました。そうでないとしても本当の自分はどこにいるんだろう。だれが自分が生きていることを認めてくれているんだろう。身の回りに《人の界隈》を持たないわたしにとっては、中空な承認欲求にため息がこぼれます。
もちろん、オンラインとオフラインの気持ちの良い関係は十人十色です。二対八の人もいれば、九対一もあるかもしれないし、五体五も結構です。(〇対十はともかくだが、十対〇も今はあり得るだろうか?)いずれかを否定したり肯定できるような話ではありません。
しかし、写真を撮ることを生業としている僕にとって、写真はリアルです。写真は実感です。実感はオンラインからは決して得られないはずです。異論は認めます。三十代はじめという他世代とは一味違う焦燥のなか、限られた時間をオンラインに費やすことに、果たして望んだプラスが返ってきたのでしょうか。昨年、オンラインの自分に応じて返ってきたのは、望まない被写体と出来損ないの自分の姿だけだったように思う。
眼と手足。それは現実を生きる僕自身をもっと信じる言葉です。自分の眼前にそびえる山々を、自らの手足だけで登ることの純粋な自己肯定です。自分のまなざしをより高い純度で感光させること。記号に表すこと。大阪ともっと仲良くなること。そして現実の街と営みを鏡に自分を知ること。悲しいこと。寂しいこと。ちょっとだけ嬉しかったこと。
それがたとえ、オンラインという陽に照らされていなくとも、皆んなと繋がっていなくても。いつか皆んなのことをオフラインに呼べるようになるまで、等身大の自分になれるように。
2024年1月、以上。