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2023年11月21日

 靴レーベル《Orphée》を主宰する靴職人の目野健太さんと、写真家の目野つぐみさんには、かねてよりお会いしたいと思っていました。この秋、展示販売会を京都で行なっているとお誘いを受けましてようやくご対面。展示販売会ですから「エキシビジョン」のお手並みも拝見するわけですが、その手法というか考え方に胸を撃たれました。シンプルにリノベーションされた古民家の土間の真ん中に、コレクションとなる5つの靴にそれぞれ1枚ずつレコードジャケットがディスプレイされている、大雑把に言えばそれだけなのです。なぜなら、それで全てだったから。
  《Orphée》の靴は、家具や建築に流れるもの作りの哲学を骨格に、レコードジャケットを冠したミュージックが靴の血肉を通わせているとのこと。それ以上でもそれ以下でもない完璧なるまでにミニマムで豊かな世界観に感動しました。音楽が靴になった。いや靴じゃない、音楽を作っているようにも聞こえる。いや、音楽が目野さんを流れて、靴の曲線になって体現した。そう思いました。素晴らしいなと思いました。
 インスピレーションは涼風のようにどこからともなく、予想しない隙から流れ込んでくる。予想できない事態です。機微を感じ取って、ふるえて、自分だけの言語になって出ていく。目野さんの場合はそれが靴の曲線だったのでしょう。
 写真だけのことじゃない。写真にこだわって生きるのは窮屈です。写真の答えを写真に求めてしまうのは、きっと分かりやすいから、その言語を通して頭で理解できるから。だけど写真だけじゃなくて、もっと色んな方向に帆を張っていたい。写真家然としない自分でいたい。でも写真がやりたい。


2023年10月24日

 人間はやはり他の動物とおなじで、あらゆる関係に主従を決め付けます。関係が上ならば自由が利きます。下ならば状況がそうさせません。社会生活の生きやすさとは、あらゆる主従関係の中で、いかに自分をポジショニングしてるかどうかが握っているような気がします。つねにテクニカルな話ではなく、自分が自由な状況を常に段取ることと、それを完遂させる勇気。弱きに流れるのはとても簡単なことなのかもしれません。
 と回想してしまう10月の現状は、きっとどこか自分の立ち振る舞いにしゃっくりが起こっているのであります。




2023年6月11日

 学生時代は「まちづくり」の勉強をしていました。この言葉もココロザシ半ばで折れたのを振り返ると、青春を捧げた僕にポンと肩を叩きたくなるけれど。
 ところで、学生時代にバイトで入っていたデザインオフィスTONE GRAPHICSのアートディレクター松尾さんが「写真が変わるとすべてが変わる」とボソッと呟いたのが何故か鮮烈で、社会人になってようやく購入した一眼レフカメラ。これが、いま歩いている道を指し示してくれています。写真家業のきっかけです。余談ですがこの国のカメラ業界は、右も左もわからないような初心者にAPS-Cのダブルズームレンズキットを買わせるのが相場なのだろうか。6万で買った覚えがあります。紆余曲折はあるにしても、いま大阪で写真稼業という土俵の上を戦い続けられています。
 これって完全なる個人プレーだよね。当初志していた「まちづくり」と遠くに離れたような場所に立っているように思います。
 しかし、例えばスーツを決め込んだサラリーマン。スーパーのおばちゃん。どこか一点を見つめている老人。工事現場の真っ黒になったおいちゃんなど、街を見渡すと当たり前のように目にする人々を見て、彼らの社会活動によって”街が出来ていくのだ”と実感できるようになったのは、やはり今もなお尊敬し続けているプロデューサー江副直樹さんの「街は作るものじゃなく出来ていくものだ」という言葉なしに語れますまい。ぼくもその一人として”街ができていく”粒のひとつなのだと意味を理解したときから、学生時代に宿したココロザシが泡となって消えていくような失望感が、ピタッと止まり前向きになれたのを覚えています。
 昔でこそ写真稼業には分野がはっきりと分かれていたようですが、いま各分野のプロフェッショナルの既得権益が慣らされているのか、それとも機材のレベルが上がっているのか、その垣根はだんだんとなくなってきているように思います。しかしそれはあくまでテクニカルな問題であって、やはりぼくは「眼差し」そのものの行方にテーマを置いています。要は眼差しをもってして、料理でも、人でも、建築でも、それぞれの写真の矛先を少しでもその方面にひらいていく余地はあるべきだと考えています。ぼくの写真は社会派です。大学時代に熱心だった「社会学」という立場はいつも軸にある。(とはいえとうに忘れかけているようでもある。堤先生すみません。)
 …かといえばディレクションが全てなので、こんなことも戯言だということももちろん承知です。
 写真の彼。徳ちゃん。彼は滋賀のお医者さん。「病院」というものをはじめ「生と死」というものへの捉え方において、その地域であらたな医療のテーマを具現化しようとしています。ある春の日「とある学会に出展するんやけどさ、写真撮ってくれへん。しかもフィルムで」と言われて……ああ、これまで上につらつらと前置きしてきた文章たちが、頭の中で一気にパスタ麺になって出てきました。嬉しいお話だったのです。写真が何の役に立つのか。結果は未知数であるにせよ、一見関係のなさそうな場所にぼくの眼差しを向けられることが、どれだけありがたい機会か。
 「写真が変わるとすべてが変わる」という松尾さんの言葉はいまも信じ続けていて、ともすれば今まで論文や学会などを主戦場とする「研究機関」に、どうして写真が必要とされてこなかったのか(知らないだけか)、あわよくば写真が持つ力が学術的な分野をもっと社会にひらく手伝いができないものかとずっと考えていました。それは数学や、もちろん社会学にもあります。ここ1年でいろんな写真集を読んできたけど、ベストを1冊挙げるとするならば、写真家斎藤陽道による写真集「日本国憲法」(港の人)でした。戦後から70年余が経ったいま、ぼくたちの平和ボケした頭から日本国憲法という指針が、彼のあたたかな日常の眼差しによって、ある種の表現物となって書店に並んでおり、電撃を受けた気分になりました。日本国憲法は写真の力をつかってこれほどに説得力を増すものかと感銘させられたのでした。
 これまでも、これからも、写真という形をしたメディアが、どのようにシステムに浸透していくべきなのか、これは業界の云々とかマーケティング的に云々ではなく、心や眼差しとしてずっと考え続けてたいし、そう手を差し伸べてくれる徳ちゃんのような異端と、これからどんどん繋がっていきたいし、彼らの目になっていきたいと心から思う。




2023年3月12日
 
 結論からお伝えしておくと、某風俗グループ撮影委託の「クビ宣告」と共に大阪生活2年目の幕が切って落とされたということです。
 理由は、期待するほどの面白いお話でもないので割愛しますが、「クビ宣告」という言葉をこう使うことになるのは初めての経験でした。心をゴリっと削り取られるものがあり、数日ひとり空っぽになったスケジュールを見ながら布団に包まり、春のゆくえに震えたものであります。恐るべき「ユーアー、ファイヤ」。
 カネがない上、大阪に来た意味も見失ったところに見かけた《求人バニラ》のエントリーボタン。たしかに邪な考えもありました。しかしそれ以上に撮影スタイルの新たな分野を見つけた気がしたからと言っておこう。たとえば師匠との出会い。「エロティシズム」から紐解く写真の哲学と観察眼。そしてコミュニケーションの実践。それを学ぶに十分な撮影環境でした。
 とくに人物を撮る際の焦点距離とパース、角度については何度も反省させられたのであります。ポージングも、つまりは人間がどのようにすれば最も美しくカメラに映るのかでありまして、焦点距離/ ポージング / そして光をいかに駆使しながら、人間の目とカメラの目の間にある「分厚い壁」をひょいと越えていけるかということなのです。
 桜の花びらが散り新緑が芽吹く今日この頃。色んな不安を胸に、大阪生活2年目に宣戦布告です。よろしくお願い申し上げます。
 書けば書くほどに長くなるだけの不毛な前置きをそこらへうっちゃり、お次は本題です。 今年で6年目となる川嶋克写真事務所は、あらたな撮影スタイルを導入します。どんどんとカメラの性能が向上していくこの世の中ですが、その進化に一部あらがい、積極的にマニュアルフォーカスレンズを使用した撮影態度にシフトしていこうと考えています。
 しかしフィルムカメラではなくデジタルでの撮影を一貫することには変わりありません。
 写真の系譜を編んで来られた、上野彦馬をはじめとする先パイ方はみなフィルムカメラとともに、すべて人力操作で被写体の決定的な瞬間を現像してきたことかと思います。その「眼差し」への敬意を、ちょっとした貯金で誰もがカメラを買えるようになった時代にポッと出てきた分際のひとりとして、重厚に受け止め、後輩に引き継ぐ思いです。
 高速AFや画素数の進化には目まぐるしいものがあります。特に映像の分野ではその傾向は顕著です。どんどんとAiの力によって、マシンは人間の眼と動体視力そのものになっていきます。しかしこの売り上げのかかった性能競争の行き着く先に、自分の撮影スタイルがあるとは思えません。先人達の系譜を「眼差し以外のもの」に依存し切ってはならない。
 たとえばこの世にある「フィルムの写真」が我々の写真環境の隣にいてくれるからこそ、ますます転がり続ける高性能化と同じくして自身のスタイルを変化させ続けていくことは、ある意味では間違っています。「写ルンですもいいけど高性能のマシンもいいよね」は、恐らくいくらか破綻している。両極を離れ続けていく写真を繋ぎ止めるのは、やはり「眼差し」とその眼差しに最も相応しい撮影機材を選択することだと考えました。
 隣の芝生はいつだって青い。青く瑞々しく見え続けます。しかしいまここにいる自己を観察し続け、肯定を少しでもできてあげないと写真は苔むしていかないと結論しました。
 つまり何が言いたいかというと、要は、某風俗グループ撮影委託のクビと共に大阪生活2年目の幕が切って落とされたということです。本日はお仕事の話をしました。
 最後まで雑文にお付き合いいただいた方、ありがとうございました。




2023年2月24日

 もう公言してもいい頃だと思います。
 僕は個人で写真を撮らせていただいているかたわら、とある風俗グループにて撮影委託を請け負っています。風俗嬢のパネル写真。格好良く言えば女性を美しく撮るお仕事ですが、言葉をひっくり返せば、野郎どもを写真でいかに勃たせるかというお仕事です。抜いては溜まる我々のエロを徹底的に追求し、すべては風俗嬢の指名率アップのため、身バレ対策/ 縦写真 / モロ出しNGなど色んな制約のなかで、思考し、撮り続けます。目まぐるしい速さで増えては消えていく源氏名を冠したきらびやかなポートレイト。そう写真が必要で無くなるのはその風俗嬢が存在しなくなるときです。突如として現れ、消費され、やがて捨てられていく商業写真ですから、これには刹那的なさみしさがあります。誰のものでもない、誰も触ってはいけない廃棄物になるのです。
 「写真という社会との関わり」を、師を持たずして築くことはなかなか半端な道のりではありません。写真学校で学んだり、師事して型を知る機会を持たない人々は、その身を挺して、膝をすりむきながらも地を這いつくばることでしか道が見えないからです。自分の写真というものを、他社の介入もなしに胸を張るなんていうのはきっと虚勢でしょう。
 はじめて僕は大阪で師匠を持ちました。風俗業界ではかなりハイレベルな撮影スキルを持った方だと尊敬している人です。僕は師に、我々ヒューマンビーイングの万物の源である「エロティシズム」からはじまる写真の哲学を教わりました。師はほどなくして、持病であるヘルニアの悪化を懸念し業界を引退しました。師と共にした半年間は「日本のエロティシズムを僕ら世代が支えないといけない」と痛感せざるを得ない、稀有な体験でした。師匠、短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。これからは僕らに任せてください。
 師匠が居なくなったグループの専用スタジオで、撮影し終わったお嬢を見送りながらふと考えることがあります。
 「どうしてくれんねん、師匠おらんと撮影量ふえるやん。自分の仕事もっとキツくなるやん」



2023年2月24日

 大切な人の死は、喪失であると同時に、新たな出会いでもある。死は決して絶望だけではない。死者とのコミュニケーションを通じて、人間は新しい人生を生きることができる。そんな姿を、死者は温かく見つめてくれるはずだ。死者と一緒に、私たちは生きているのだ。ー『保守と立憲』中島岳志
 たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を超えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。ー『僕にはわからない』中島らも
※いずれも『千年の読書』三砂慶明 より抜粋させていただきました。

  「この度はご愁傷さまでした。大変でしたね。はい。この棟の班長です。-  ではお先に線香だけ。」
 ジイチャンに続くバアチャンの死については、まだ心にずんと重いものがぶらさがっているような感覚が初孫の僕にはあります。相当苦しみながら死んだと聞きます。「なんでこんなに苦しい思いをせないかんと」。なんでこんなに苦しい思いをしないといけんかったんやろうね。苦しかったね。あっちではゆっくり楽にしてね。ありがとう。みんなのすすり泣く声。駆けつけた先の長崎県佐世保市の火葬場控室、かあちゃんと純子ねえちゃんと一緒に、死化粧をほどこしたバアチャンの横たわる側で座布団を枕にして眠りました。《一日葬》というものがあるらしく、故人が死んだその翌日に家族葬として行いました。そして骨壷を持って、バアチャンが一人で住んでいた坂の上にある公営住宅の4階の部屋に移動し遺品整理です。独り身だったバアチャン。苦しみながら自ら救急車を呼んだのか、部屋はついさっきまで人が暮らしていたかのような生活感が残っておりそれが何とも生々しく、もうこの先戻ることの出来ない刹那を感じて写真を撮ったものを「まだ温かい部屋」と題してデジタルフォルダにしました。
 この人はどういう人生を歩んできたんだろう、何が楽しかったんだろう、辛かったんだろう、と他人の一生に自分事のようにも深く思いを巡らせる機会はそう多いものではありません。僕は妻を持たないし子もいない。誰かのための人生を未だ歩んでいない未熟さです。冒頭に中島岳志さん / 中島らもさんの言葉を借りたのは、その一節に心が救われたからでした。身近な人の死を経験し自分の中で何か大切なものを失ってしまったような気分を感じるのではなく、死によってこの世に取り残された僕らがその人のことを心から思っていればこそ、僕ら人間の一生がさらに新しくなることだと。僕らに生死を語ってくれました。
 ところがこの世に取り残された僕らの一生が、どう新しくなるのでしょうか。これらの死に対してどういう気持ちで克服し、これからを生きるのでしょうか。それは果たして幸せな未来を予感させるものなのでしょうか。