2024年
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 9月 11月
2023年
2022年



2024年2月14日

 地方出身ならじんわり感じたこともあるかもしれません。帰郷はいつも切ない。たとえその頃の記憶が華々しいものでなくても、ふたたびあの懐かしさに触れられる期待があります。しかし都度期待を裏切られるのです。それも懐かしさは、なにか違う感触に変わって客人を待ち構えている。

 まずは時間について。まるで浦島太郎のように、時の経過というものに盲目になっていきます。1分1秒、時間が身の回りを正確に流れていることになんの疑問も持たず過ごし続けているからこそ、やがて記憶の中にいる人や風景にも同じように時が降り注いでいることを忘れてしまうのです。気付いた頃には暴力的なまでのその時間差に黙り込んでいる。
 そして「切なさ」とやらの成分について。故郷の姿が、自分の期待すべき時間軸に置いてけぼりにされている感覚なのかもしれません。ただし何をもってしての期待なのかは言葉にできない。でも記憶の風景に期待以上のアップデートを求めているからこそ、裏切りが切なさに変わる。その期待はほんとうに正義なのかも思考されないまま、あたかも自分が歩みを進めているかのような慢心が生み出す混乱そのもの。この期待すべき時間軸がなければ、切なさも何もなく、柔らかく変化を受け入れられるほどのスケールで世界を見渡せるのに。切なさに己の未熟さを垣間見た帰郷でした。




2024年2月12日

 映画「トゥルーマン・ショー」の主人公トゥルーマンは天候をも操れる巨大なTVスタジオの中で生まれました。一つの島を模したロケセットの中、自分の人生が24時間放映されていることも知らず人生を送ります。そりゃ人の生活が24時間流れていれば感情移入もすることでしょう。30年間ずっと高視聴率を上げていたトゥルーマン・ショー。しかしラストシーンではその虚構に気付き、全世界が見守るなかセットの外を出るのでした。視聴者はラストシーンに大喜び。「自由」ということの夢と希望をもたらしました。ところで視聴者の呟いた二の句に驚いた。「ああ、終わっちまった。番組表はどこだ?」

SNSを辞めてから10日が経ちました。先のセリフのように、終わったものへの執着は驚くほどに無い。オンラインへ費やしていた時間は一体何を満たしていたのでしょうか。「番組表はどこだ?」ぼく含め一般人はそれに代替するものを探そうとするのだと思っていて自然と手が伸びたそれが答えだと期待したのだけれど、特に無い。ただただ「時間とは有限である」ことへの焦りが、時間が少し余ったことで生まれたのでした。これは発見である。外に出る勇気もなく、ただ現像に明け暮れる2月の現状。


2024年2月7日

 愛車はただいま車検中。


2024年2月、以上。