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8月の現状。
新しいカメラが仲間入りしました。その名も「Fujifilm Real 3D W3」。2009年製の手軽なマシンですが、そこそこしっかりした画質スペックを備えています。センサーはCCDというオールドスクールな方式で、これがなかなか味わい深い発色をしてくれて気に入っています。面白いのは、名前の通り「3D」を実現するためにレンズとセンサーを二基ずつ搭載していること。かつてはこの“3D”に未来を託していたのかもしれません。しかし令和の時代にそんな日常は訪れず、3D写真は夢のまま終わってしまいましたね。かつての未来像を背負った奇妙なカメラ。これが当たり前の風景になっていた可能性を想像するとちょっと切なくもあります。その儚さや寂しさがCCDの淡く深い写りに滲んでいるような気がします。実際3D機能に用はなく結局撮っているのはもっぱら2Dの写真ばかりです。購入当初から3Dへの関心があったわけではないものの、二つ並んだレンズのうちのひとつが確かに“夢の窓”として存在していること。それにジーンと胸打たれ、このカメラを愛機として迎えたくなったのでした。
いい写真の条件は数えきれませんが、中でも「身体性」は外せない精神だと考えています。いかにキツい現場でも重い機材を背負い、ポジションを妥協せず、かがみ、寝転び、背伸びし、走り、飛び越え、時にはギリギリで踏ん張ります。カメラは身体の制約があるからこそ面白いのです。ですが本来、カメラポジションに制約はありません。その垣根を行き来することが私のテーマのひとつです。ドローンの登場で写真表現は広がりましたが、それは身体性から解放された領域の写真であり人間性の温度は薄いと感じています。商業でも作品でも、私は撮影者の身体を感じる写真が好きであり、そのスタイルに自負もあります。ですが最近、踏ん張れない瞬間が増えてきました。求める身体性に体が追いつかないのです。現場でしゃがみこんだまま、立ち上がるのに数秒かかる自分に気づきます。老体化の足音を息切れの合間に感じることもあります。いい写真を撮りたいと思うなら、まずは走ることから始めなければいけませんね。
2025年08月09日
京都精華大学メディア表現学部メディア表現学科の特設サイト「セイカのタクラみ」の撮影を担当させていただきました。毎度、学生さんの個性をどう出すべきかと、難しい撮影でしたが、皆さまのご協力やご理解のお陰でとってもカッコいいサイトが出来上がりました。ぜひ一度覗いてみてください。
近所の角打ちで出会ったおいちゃんとのご縁から、若中として参加させてもらっている海老江八坂神社のお祭り。怒涛の夏大祭が先月幕を閉じました。夏大祭の盛り上がりはこの町ではある意味では事件です。今年こそはと念願だったフィルムカメラで記録させてもらいました。つい先日現像ができたので、少しだけ当時を思い返してみます。大祭当日、袖に忍ばせていたのは「カーネルプチカメラ」というおもちゃカメラ。使い捨てではなくちゃんとしたフィルム交換式ではあるものの、焦点距離はもちろん、絞りもシャッタースピードもすべて固定。しかも、取扱説明書にもネットにも仕様がまったく載っていないという、なかなか得体の知れないカメラです。せめてフィルム1本分だけでもテストして露出を測っておけばよかったのですが、そこは無謀にもぶっつけ本番。こうしたカメラの定番スペックでいえば、焦点距離は35mm前後、ピントは1m〜無限遠、絞りはF8〜10、シャッタースピードは1/125あたりでしょうか。実行感度200のフィルムを使っていたけど飛びはしませんでしたね。ただし“おもちゃ”とひと言では片づけられない仕様がもうひとつあります。なんとホットシューが付いていて、クリップオンはもちろん、プロフォトまでシンクロしてしまうという、ユーザー層がますます見えない稀有なカメラなのです。そんなわけで、クリップオンストロボを付けて夜の一幕にもこれでしっかり迫ることができました。現像こそ1本分は失敗してしまったものの、仕上がりは驚くほど見事に荒ぶった描写。MARIX中華フィルムの精度や、硬調ぎみの現像プロセスも相まって、それこそ祭りに相応しい、最もフィジカルで、最もプリミティブで、そして最もフェティッシュな映像が得られました。僕が写真に求めている令和の空気が、たしかにそこに写っていたのです。写真の回想ばかりで恐縮ですが、祭りがあまりに過酷だったのか、それともトランス状態だったのか、まだ記憶が白く霞んでいてなかなか整理がついていません。
2025年7月14日
2025年7月13日
2025年7月9日
1年半ぶりにポートフォリオを更新しました。
ささやかですが、よかったらご覧下さい。
2025年7月4日
2025年6月27日
カナダの変なお兄さん、ショーン・ニコラス・サベージを聴くようになったのは、もう10年も前のことでしょうか。70〜80年代を思わせる宅録シンセのムードと共に跳ね返ってくる、圧倒的な歌唱力。かと思えば、実に庶民的で、いつもタンクトップだし、すきっ歯だし、煙草もヘビーな方だと思う。世界観も挙動も、あきらかにヘンな人なのですが、そのすがた佇まいは、つねに僕たちと同じような暮らしの延長上にあるという可笑しみ。それが、好きなのかもしれません。2020年にモントリオールで発表していたミュージカル『Please Thrill Me』の存在を、つい最近になって知りました。遅ればせながら観たそのフルパフォーマンスの美しさに、思わず感動してしまい、かつて彼をよく聴いていた頃の記憶が再燃しています。英語ができないので内容はあまり理解できなかったけれど、クラシカルで、本当に美しかった。「ああ、この人、これがずっとやりたかったんだろうな」と、素直にそう思える1時間でした。誰にでも、美しい世界というものがあって、それをこの現世に残したい、あるいは一度でも経験してみたいと、どこかで思っているんじゃないかと思います。音楽はもちろん、写真や映像、立体表現。自らと外部の気持ちが接続できるメディアを通じて、そうした世界を目指してチャレンジしていくことになるのだけど、その“美しいもの”をピュアに届けるためには、単一のメディアだけでは届くと胸を張れないでいる自分もいます。受け手の気持ち、環境、社会情勢……あらゆる外部要因に、どうしても左右されてしまうのではないかと。だからこそ舞台を用意して、バックバンドやキャストの力を借りながら、自分の世界に一歩踏み込んでいく。その姿に僕はとても励まされました。
写真はナイキ エアリフト。単に代替わりの一瞬を撮ったものです。左が新しく迎えた一足、右が1年半ほぼ毎日のように履き続けたモデルです。こうして並べると、さほどの差はないようにも見えますが、実際にはあちこちが破れ、変形し、靴としての秩序はすっかり失われています。にしても、靴って1年半でこんなに壊れるものでしたっけ?よく「モノはもっと大切にしなさい」と叱られながら育ちました。でもそんなに雑に扱っているつもりはありません。むしろ気に入ったものほど、徹底的に使い込むタイプです。だからこれは、モノの問題というより、僕のパフォーマンスのほうが問題なのかもしれません。僕の職業はけっこう歩くし、しゃがむし、小走りですし、現場によっては泥も水もある。靴のほうがついてこれなかった。そう言いたくもなります。エントロピー増大の法則を例にモノの刹那について語ってくれた鯵坂兼充さんの言葉が、写真を眺めながらふと浮かびました。すべてのモノは僕の前ではいつか壊れる。そして僕も壊れる。その一瞬の手前で、ちょうど一枚、撮っておきたくなったのでした。
余白という言葉をよく耳にします。写真やデザインにおける余白、暮らしの余白、わたし自身の余白。それは洒落た兄さん姉さんたちがまるでドレスコードのように使うし、2000年代中盤頃から勢いを増した「丁寧な暮らし系」の人々のあいだで広まったスラングの一種なのかとも思っていました。しゃらくせえ言葉だと。しかし、わたしも33歳になってようやくその意味がわかってきた気がします。いや、わかっていたのに言葉にできていなかっただけなのかもしれない。余白とは「澄んだ心地」のことではないかと。何のノイズもない、切なさすらすっと入り込める空虚な器。つまりは、ただ感受を待つだけのわたし自身です。思い返せば余白というのは意識して自分でつくれません。意識の外側からふいに訪れるものです。日常のなかの、ふとした奇妙さや静けさが引き起こす一瞬の空白。それこそ余白です。誰もが余白を求めている一方で、それを人為的につくり出そうと試みては、うまくいかずに戸惑うことがある。たとえば美術館で素晴らしい作品と出会っても、心のなかに澄んだ余白がなければその魅力はまっすぐに届かないのです。あるいは、ノイズで満ちた心には作品の光が射し込む余地がなかったということもあるのかもしれません。先日山梨県にふらりと旅をしたとき、わたしは思いがけずその「余白」に触れました。何か特別なことがあったわけではありません。ただほんの数分間、何も考えず、静けさのなかに立っていただけでした。心がふと澄んで、あらゆる感覚がいっせいに広がるような、不思議な瞬間でした。そしてまた気付きます。写真をきちんと観てもらうには、きっと作品だけでなく、その人の生活リズムや気配さえも整っていなければいけないのではと。もしそうならば、パッケージや装丁の工夫だけでは足りません。もはやゲストの一週間の過ごし方から変えてもらわなければならない──なんて我ながらばかげた話です。けれどそんなばかげた話が、ほんの少し本当のような気もしています。
2025年6月10日